突き詰めたところからみえてくるもの
《アニメ作家 高畑勲さん死去 「火垂るの墓」などの作品》の記事が目に止まりました。 アニメやテレビに疎い私でも、「ああ‥」と思ったのと、自分の親の世代の人なのではないか、と思ってのことです。
記事の中でこんな言葉がありました。
『「どんどん作り込んでいけば現実感を感じるかと言えば、人間必ずしもそうではない。それよりはざっと描いたもののほうが、その背後にある本物を感じられるのではないか」‥』
これはペルシャ絨毯の世界でも同じような見方ができるように感じました。
細密画のようにどんな点も逃さないような細かい細かいモチーフの連続を織りで追求していく主に工房で織られた絨毯。(右・個人所有)言葉を挟ませないような迫力でせまってきます。
その対極に、細部をどんどん削ぎ落として遂には何だかわからないくらいにモチーフがデフォルメされることもある遊牧民の織る絨毯。(左・ギャッベ絨毯No.16704)
同じペルシャの絨毯でもこんなに違うテイストになるんですね。
さらに記事には、
『5年前に公開した「かぐや姫の物語」では、画面にあえて塗り残す部分を作ったり、粗い手描きの線のままで表現したりする、新たな手法を取り入れました。 それまでの作品では、登場人物や背景をくっきりさせるために画面の隅々まで描き込んでいましたが、高畑さんは見ている人の想像力を奪っているのではないかと考え、古い絵巻や日本画といった美術作品を参考に、8年にわたる構想を経て実現させたということです。』とありました。
そうなんです。ギャッベを見ているとモチーフとモチーフの間の余白がたくさんあって、そこに自分の想像したものや思い出を描いていけるんですね。 例えば上のギャッベですと、7匹のヤギはまだ子供かな? 何して遊んでいるんだろう?そういえば自分も子供のころは集まって遊んでいたな‥今みんなどうしているかなぁ‥連絡してみようか‥など、どんどん自分の世界が広がっていく。 多分、想像ですけれど高畑勲さんもあるところまで突き詰めた結果として、これに近いこと考えていたのではないかな。そしてそれを古い絵巻や日本画から得ていたんですね。 ただし、絨毯の場合はその地方の環境によって入手できる材料や手法に限りがあるので、一人の織り手がそこまで追求できるのは稀かもしれませんけれど。
こんなところでもアジアの西端と東端、ペルシャと日本、繋がっているんだと実感します。
病から解放されて、思いのままに創作活動を続けていかれるのでしょう、と勝手な想像をしています。
ご冥福をお祈りいたします。
記事本文はこちら
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180406/k10011392731000.html?utm_int=all_side_ranking-access_004